中国の家の教会のサラリーマンの牧師

先日は私の教会で聖餐式がありました。私の通っている教会では、毎月月初に聖餐式があります。

(聖餐式とは、イェスの十字架を記念し、イェスのお体であるパンと、イェスの血潮であるぶどう酒を飲食する、イェスが弟子たちに命じた大切な儀式のひとつである。)

私の教会では、一日に3回礼拝があるので、聖餐式も3回もたれます。一回あたりの聖餐式にかかる時間は、20分ほどで、重々しい儀式の中、十字架の賛美をしながら、パンとぶどう酒を飲食し、最後に、元気な賛美をして終わります。

そして、毎回、聖餐式を導くのは牧師の楊兄弟です。兄弟は非職業的牧師で、普段はサラリーマンをしています。私の通う教会には説教者が数名おり、毎週、違う説教者が説教をします。

昨日は楊兄弟が説教をする日で、昨日も一日に3回説教をしていました。(しかもそのうちの2回は違う内容の説教)

説教3回と聖餐式の司会3回と、兄弟にとっては非常に忙しい一日です。昨日は、特に疲れが溜まっていたせいか、兄弟は2回目の聖餐式の時、パンを食べた後、ぶどう酒を飲む儀式を飛ばしてしまい、そのまま、最後の賛美へ突入してしまいました。

結局、途中で会衆側から指摘が入り、ぶどう酒飲酒の儀式が再開されました。もちろん、兄弟にとって見れば、既に一回目の礼拝でパンもぶどう酒も食しているので、何回も繰り返すうちにわけが分からなくなったのだと思います。

平日はバリバリのサラリーマンで、
週末はバリバリの牧師。

(もちろん、牧師である以上は、24時間牧師でない時はひと時もないと思います)

少なくとも私は日本において、このような人たちを見たことがなかったので、この人たちは本当にどうなっているのだろうと、ずっと不思議に思っていました。中国の教会にも職業的牧師、フルタイムの牧師はいますが、彼のような非職業的牧師もたくさんいます。

中国の多くの教会では、先生や牧師という肩書きは一切なく、牧師であっても、兄弟と呼びます。というのも、多くの中国の教会では、それぞれ賜物がある人が、それぞれの働きをしたらいいと考えており、そこに上下関係は存在しないからです。

「あなたがたは、師と呼ばれてはならない、なぜなら、あなたがたの師は一人であり、実にキリストであるからである」

説教の才能(賜物)がある人が説教をし、
牧師の才能(賜物)がある人が牧師をし、
教師の才能(賜物)がある人が教師をし、
音楽の才能(賜物)がある人が音楽に関する働きをしたらいい。

そこに上下関係はありません。下が過度に上に従属するというような関係は存在しません。

もし、先生と呼ばれるべき職業的な牧師だけを、牧師と呼ぶならば、楊兄弟は日本では平信徒にあたります。しかし、その働きは牧師となんら変わりないため、私は、このようなバリバリ伝道できるサラリーマンのことを、「スーパー平信徒」と勝手に呼んでいます。

私の通う教会の信徒数は1000名程ですが、職業的献身はたった二人だけです。それも、牧師や伝道師という働きをしているわけでなく、財務や印刷、組織運営の事務的なことをしている人たちです。職業的献身者たった二人だけで、毎年、180名近い新生クリスチャンを生み出しています。

その背後には、非職業的献身者やスーパー平信徒が、大量に存在しています。

バリバリ伝道できるサラリーマン
バリバリ説教できる主婦
バリバリ司会できるおばちゃん
バリバリ祈祷できる学生

狭義の献身は、フルタイムの献身を決心した時から、
広義の献身は、イェスを信じた時から始まると思います。

もちろん、双方に良し悪しはなく、
それぞれの教会、それぞれの国の事情、
それぞれのイェスキリストとの関係によって、
それぞれの仕え方があるのだと思います。

「あなた方の師は、一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」

カナンの地は今日も輝いています。