あつかましさという外圧

私はわずかな言葉で中国人を形容すれば、おもしろいという言葉を選びます。これは、どちらかといえば、私の中国人に対するプラス面の評価になります。その他の表現を選んで中国人を形容すれば、あつかましいという言葉を選ぶと思います。これは、私にとってはどちらかといえばマイナス面の評価です。

もちろん、決して中国人全員があつかましいのではなく、日本人と比較して、相対的にあつかましい人が多いと思います。関係が近く、よりフラットで気軽なぶん、相当、面倒な出来事が起こることがあります。

例えば、学校の学生でいえば、既に卒業した学生から、以前、配布した資料を全部コピーしてほしい、模擬テストをコピーして、明日渡してほしい、などの要求は朝飯前です。資料全部となると、用意するのにそれなりに時間と労力がかかります。

もちろん、卒業してからも、私の学生に変わりはありませんので、彼らの要求に応えるのは教師として当然のことかもしれませんが、私が辛さを感じるのは、メール一通で、当たり前にお願いしてくるところにあります。

その他、よくある依頼が、日中訳、単語の意味の確認などです。簡単な数文の翻訳なら引き受けるようにしていますが、例えば、とても引き受けられないのが、学生が働いている会社の契約書の翻訳、学生が働いている工場の作用手順書の翻訳、学生の友人の数万文字に及ぶ学位論文を校正する依頼、などです。

先々週の土曜日は、ある友人から、夜の11時30分にメールで、「胃薬があったらほしい」と連絡が入りました。翌朝は7時40分までに、教会へ行かなければならならず、正直な気持ちとしては早く寝たかったので、すぐに返信せず、どうしようかと対応を考えていると、その友人から電話がかかってきました。

電話に出て、話を聞くと、お酒を飲みすぎて、胃が痛いから薬を持ってきてほしいというものでした。まず、友人の家まで薬を届けるには、歩けば往復40分かかります。自転車はだいぶん前に窃盗されているので、届けるにはタクシーで行かなければなりません。

それに、遠くに住んでいる外国人の私より、近辺にいる友人に、お願いするほうがいいのじゃないかと思いました。私は深夜に及んでのこの要求は、常識を逸脱していると思い、すぐに断りました。

しかし、電話を切った後、内側にすっきりしないものがありました。クリスチャンは人が困っている時に手を差し伸べるべきじゃないのか。どうしてクリスチャンなのに、その程度の品性しか持っていないんだ。

これは、外からの評価の声です。結局、考えたあげく、タクシーで胃薬をその人の所まで持って行きました。

こうなると、

相手があつかましいのか、
私の対応に非があるのか、

よくわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、中国人のあつかましさにどこまで付き合うか、それには知恵が必要です。中国でキリスト教が急速に拡大していった理由の一つに、中国では人と人との関係が非常に近く、気軽に話しかけられる関係があったことがあげられる、と私は考えています。

隣の人は何をする人ぞと思えば、すぐ聞けばいい。また、隣の人に話しかけられたら、答えればいい。このような思考方式、行動様式は、布教活動の際、プラスの側面を持っている一方で、マイナス面も持っていると思います。

あつかましい人たち大勢いれば、それだけ、中国人クリスチャンに要求される行動や、兼ね備えているべきと思われる品性や成熟度もより高くなると思います。

どうしてクリスチャンなのに、、、、なのか。
どうして牧師なのに、、、、、、、なのか。
どうして伝道師なのに、、、、、、なのか。

政府による迫害という外圧はほぼなくなったが、中国人による“あつかましさ”という外圧の中で、中国人クリスチャンは奮闘し、伝道し、成熟を目指している。

あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、誰であるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。

カナンの地は今日も輝いています。